川崎が育んだ天才
2003年当時の野崎治之氏 |
2016年春 Jクラブ職員として等々力競技場を視察 |
野崎治之氏プロフィール 本名同じ。栃木県宇都宮市出身。 東京ビジュアルアーツ専門学校卒の41歳。 幼い頃から応援の魅力に取り憑かれ、高校生にしてスタジアム応援デビューを飾る。当初はプロ野球の応援がメインだったが、ある時ジェフ市原サポーターの中にあって、和田宗樹氏(当時ジェフ市原サポーター応援団長)にその才能を見出されてからはサッカーの応援に傾倒していった。その後、1998年頃から川崎フロンターレの応援を主な活動の場としながらも、サッカー日本代表をはじめ、プロ野球、バスケットボール、アイスホッケーなどスポーツの垣根を超えた応援を幅広く手掛けてきた。2001年より川崎フロンターレ応援団・川崎華族に参加、常にその最前線にあって類稀な才能をふんだんに発揮していた。しかし、天才であるが故に奇行が多く、研ぎ澄まされた応援センスとともに、この奇行も随分目立っていた。 2010年からは彼の生まれ故郷に前年誕生したJクラブ・栃木SCに移籍、応援活動を開始した。2015年1月、惜しまれつつも応援活動の現場から引退、栃木SCのクラブスタッフに華麗な転身を遂げた。 その後は栃木SCトップチームの運営業務を通して、クラブの地域密着とJリーグそして日本サッカーの発展に尽力を続けている。 |
2018年 テレビ東京「ワールドビジネスサテライト」に出演 |
2021年元旦 突如、新国立競技場にあらわる |
[緊急レポート] 野崎治之氏があのDVDに出演! |
サッカーフリークから絶大な評価を得て止まない2002年W杯日本代表ドキュメンタリー「六月の勝利の歌を忘れない」。日本映画界の俊英と言われる映画監督・岩井俊二が、日本サッカー協会の膨大な公式映像記録の中から、なんと野崎氏が懸命に応援する光景をCG(コンピュータ・グラフィックス)で蘇らせた。
その貴重な映像の一部をここに公開しよう。
CGで蘇る野崎氏の応援 W杯日本vsベルギーの応援の様子と思われる。 忘れもしない2002年6月4日、日本代表の初戦は 野崎氏にとっても生まれて初めてのW杯での応援であった。 |
野崎治之名言集 |
「おまえらは応援するために生まれてきたんだよ!」
(解説) J2に降格して間もない2001年開幕直前に、応援のモチベーションを高揚させるべく彼が言い放った言である。J2降格に伴うサポーター流出に悩む日々が続いていた我々を強力に奮い立たせたことは言うまでもない。
「ここに女の子が来たら子供が出来ちゃうくらい、今日は熱く応援しようぜ!」
(解説) 2001年7月の大宮戦の前説で言い放った言である。リーグも中盤に差し掛かろうとしているのにもかかわらず低迷を続けるチーム、そしてテンションが一向に上がらないゴール裏にハッパをかける意味でも重要な意義があった。ただ、その表現については滅茶苦茶であることは否めないが、不思議とニュアンスは伝わっていた。
「今日は俺達の応援が選手を盛り上げるんじゃない!選手が俺達の応援を盛り上げるんだ!」
(解説) 2001年10月、長野で開催された大宮戦での試合中の叫びである。ボールを奪ってさぁカウンター!という矢先にすぐにまたボールを奪われる、という情けない試合展開。応援も途切れ途切れにならざるを得ない展開に嫌気が差し、この言に及んだ。
「応援はセックスだ」
(解説) 2002年3月、応援交換研修先・仙台スタジアムでのベガルタ応援の帰りに言い放ったとのこと。トッパーズのヒナタトカレフ氏が「これは名言だ」とかなりの感銘を受けている模様。現在、その時近くに居合わせた川崎華族初代代表・砂田淳氏に詳細を確認中。
「フロントが変な名前の外人を連れてくるのがいけないんだ」
(解説) 2003年8月、新加入ホベルチ選手の応援コールが「歌うのが難しい」との指摘を受けて、野崎氏が言い放った言葉である。
「最近はヤツらも応援に合わせてプレーしてくれるようになったし…」
(解説) 2003年8月、シーズン開幕時と比べてチーム状態もずいぶん良くなり、試合中にも小気味いいパスが繋がるようになったフロンターレの選手達のことを褒め上げた言葉である。
「自分がネット上の人間だってことがよく分かったよ…」
(解説) 当サイトがサポティスタ主催「年間最優秀サイト2003」に選出された際、特集記事の中の選考委員らの対談コメント(「川崎のゴール裏には応援家っていうリーダーがいて…(略)」「いるね、応援家って。自分で言ってるからね。」)を読んで、ポツリと言い放った言葉である。
「戦術うんぬんよりも、しゃべりの勉強をした方がいいな…」
(解説) 2008年4月26日、関塚監督の辞任を受けてコーチから昇格就任した高畠新監督の試合後のインタビューを観ながら、ポツリと言った言葉である。
野崎治之アート集 |
一瞬のひらめきとともに作成された応援啓蒙ポスター。 1999年頃の作品である。 |
即席応援グッズ・ハリセン。 脱Vメガホンにはうってつけの一品。 野崎氏自ら作成マニュアルも記している。 2001年初頭、ゴール裏でもブレークしていた。 |
2001年11月のリーグ最終戦、山形のJ1昇格を阻止すべく 胸に秘めた決意を一気に弾幕に記す野崎氏。 この日を境にして彼の作成する弾幕は 新たな境地を切り開いていくことになった。 |
鮮烈な記憶に残る2001年12月の作品である。 この作品が某所で評論家の目にとまり、 野崎氏は一気に全国区のスターダムにのし上がることになった。 一部のファンからは「神」と崇められたが、 本人はそんなことまったく気に留めていないらしい。 |
ここは栃木県宇都宮市にある野崎氏の実家。 郵便受けには彼の輝かしい応援の歴史が刻み込まれている。 |
野崎治之スキル集 |
どこで覚えたのか、フォークリフト運転もお手のもの。 2005年シーズンの巨大弾幕作成時には、 人を乗せたリフトを器用に操って文字を書くという、 奇想天外なテクニックを披露した。 |
「応援は芸術だ」と言わんばかりの野崎氏、 パソコンはやはりMACを愛用。 スタジアムで配られる応援歌詞カードは 全て彼がデザインしている。 |
応援席を彩る青黒のタスキ、 汚れたら洗濯するのも応援団の役目である。 フロンターレブルーの微妙な色合いを維持するのは至難の技。 野崎氏でさえも洗剤の調合には気を使うらしい。 |
野崎氏自らデザインした応援歌詞カードは、 試合前日に応援団関連施設にて大量印刷される。 輪転機を慣れた手つきで扱う野崎氏、 印刷会社に勤務していた経験が生かされている。 |
2005年5月、新進気鋭のロックバンド「THEイナズマ戦隊」の バックドラマーとしてレコーディングに参加。 ファンの間では名曲の呼び声高い「明日を迎えに行こう」で 華麗にCDデビューを飾った。 やはりロックと応援は相性がいいのか、野崎氏と意気投合して 親交を深めているミュージシャンも多いという。 |
「サッカー批評」を読みふける野崎氏。 誰が見ても違和感を持つ光景に違いない。 やはり、野崎氏には応援業界誌「J’sサッカー」の方が よく似合っている。 |
アウェイ遠征の帰途に寄ったガソリンスタンドで 脚立を借りてまでツアーバスの窓ガラスを拭く野崎氏。 応援道具のメンテナンスに一切の妥協を許さない彼にとっては バスの窓の汚れも気になるようだ。 |
おっと、ついに出たぁ! ドラムを叩きながらトランペットを吹くという野崎氏の得意技。 なんと、この滅多にお目にかかれない離れ業を収めた動画を YouTubeの中で発見しました! とくとご覧あれ! |
野崎治之奇行集 |
あの大発明家トーマス・エジソンは幼い頃、なぜ火が燃えるのかを実験して納屋を火事にしたり、卵をふ化させようと鳥小屋にこもったこともあった。大人達からは気味悪がれ異端児として不遇な少年時代を送ったという。また、詩人宮沢賢治は農学校の教師時代、教室に窓から出入りしたとか、土足で廊下を歩いた、あるいは女性に好意を持たれたとき、わざと顔に炭を塗って嫌われようとしたとかいう言い伝えが残っている。すなわち、数々の奇行と隣り合わせに生きる者こそ、「天才」その人なのである。
通行人を煽る野崎氏 目撃者談 「西が丘競技場のホーム側ゴール裏はすぐ後ろが 一般の道路になってるんです。彼は試合中にもかかわらず、 道行く無関係な人に『もっと声出していこうぜ!』とか 話しかけてました。」 |
新応援グッズ それは応援グッズにはなり得ない。 そう断言してしまう私は凡人なのか…。 |
喜びの表現 2000年10月のナビスコ杯京都戦。 ゴール裏サポーターが先制点奪取の歓喜に沸く中、 ゴミ箱を担いでうろうろしている彼が偶然カメラに収められていた。 |
団旗掲揚 2001年12月の富山で行なわれた天皇杯3回戦。 試合直前、彼が応援団旗をスタジアムのポールに勝手に 掲揚してしまった瞬間である。 この直後、係員が血相を変えてとんできたのは 言うまでもない。 ……… それから5年余りの月日が流れ… 野崎氏悲願の応援団旗掲揚が実現できたのは 2007年の甲府・小瀬競技場でのことである。 |
意味不明の集会 これが応援の一環なのか、それとも宗教的儀式なのかは いまだに分かっていない。 |
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応援バリアフリー構想 応援のバリアフリー化を常に模索する野崎氏。 勝負師の穏やかな顔が印象的である。 |
Gスポットゾーン ゴールが決まった直後のGスポットゾーンは 非常に危険な場所となる。 自分の命は自分で守らなくてはならない。 それでも応援家は果敢に激震地へ飛び込んでいく。 |
日経新聞を読む 最近の子供たちの応援離れを目の当たりにし、 応援立国・日本の将来を憂慮せずにはいられない野崎氏。 「応援で日本はもっと豊かになるはず」と 真面目に考えている姿がそこにある。 |
応援家、ピッチに降臨す とある試合中、どこからともなくハシゴを運んできた応援家。 この直後、周りに居合わせた者の度肝を抜く行為に及ぶとは 誰も予想できなかった。 まさに応援家がピッチに降臨したその瞬間である。 |
トランペット 野崎氏の応援スタイルに切っても切り離せない応援アイテムが このトランペットである。鳴り物禁止のスタジアムでは、 いつも物議をかもす彼のトランペットであるが、 彼は命の次に大切なこのトランペットを片時も離そうとしない。 (証拠写真: 車中・飲み会) |
野崎氏が街へやってきた トランペットの軽快な音色とともに 川崎の街を疾走していく。 |
栃木凱旋 野崎氏の出身地・栃木県宇都宮市を本拠地とする栃木SC。 実は彼、この栃木SCの試合にちょくちょく出没しているらしい。 2008年11月、栃木SCがJ2参入を決めた直後、 JFL最終戦にも彼の姿があった。 |
そして伝説へ… 2014年2月、都内某所で開催されたトークショーに出演する野崎氏。 Jリーグサポーターの間では彼の存在は既に伝説となった。 レジェンド・野崎氏、フォーエバー! 奇しくも20年振りの豪雪が首都圏を襲った夜のことである。 |
野崎治之作曲集 |
Frontale2000 …MP3 (1.36MB)
(解説) フロンターレがJ1で戦った2000年、1年間を通してサポーターに歌われた名曲である。野崎氏が一晩で一気に作り上げてしまったという伝説が残っている。この曲のファンは今でも多い。韓国Kリーグの大邱(テグ)FCのサポーターにもパクられるほどである。
Frontale20000 泣き虫電車バージョン …MP3 (2.08MB)
(解説) 「2000」の次は「2001」と思いきや、「20000」と名付けるセンスはさすがである。特にこの「泣き虫電車バージョン」は他チームのサポーターの評価も非常に高い。
野崎治之詩集 |
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(解説) 「川崎の日本代表」というのは、おそらく孤高の応援家・野崎氏本人のことと思われる。人付き合いや会話でのコミュニケーションが苦手な応援家、彼の孤独感と哀愁が文中からひしひしと感じられる名文である。応援家にはもはや応援しか生きる道はないのかもしれない。
我々には、川崎が育んだ天才応援家・野崎治之氏の応援に賭ける情熱と作品を守り、後世に語り継ぐ義務があります。
この他にも野崎治之氏に関する情報をお持ちの方はこちらまでご一報ください。